ニーチェの超人思想に関する論考 その2

ニーチェの凄いところは、約100年前の世界(実際は「西洋世界」とカッコつきの世界のことですが、現代ほどグローバルではない当時の地球の「世界」とは、西洋人にとっての世界(西洋世界)が「世界」だったということです)において、「神は死んだ」と宣言したことです。当時のこのキリスト教が支配的な世界の只中で、「神は死んだ」と言ったのです。

神は死んだ

???

ということは、以前は神は生きていた(存在していた)?
が、それが死んだ。。?

これは正確には、「神はいない(存在しない)」、つまり「無神論」を爆弾発言したということです。

つまりニーチェが「神は死んだ」と言ったとき、それは、「神は存在しないのだから、【神】の存在を拠り所としているキリスト教的価値観は無効だ」と言ったのです。

キリスト教的価値観とは、何でしょう。
細かい教義は別にして、大きくいえば、次のような前提がある世界観となります。

世界(宇宙)は神(創造主)によって創造された。
故に神は「絶対」である。絶対の「大ボス」である神の意志に従うべきである。
大ボスに従うのは善で、従わないのは悪である。
この世の苦しみを耐え忍んで大ボスの戒律に従って生きれば、死後、大ボスが用意する天国に召される。
従わなかった悪の輩は、死後永遠の地獄で苦しみを受ける。

かなり大雑把ですが、このような世界観であり価値観、つまり「終末における救済」思想が、キリスト教的価値観となります。

これに対して、ニーチェが言ったのは、次のようなことになります。

「神は死んだ(神はいない)。だから、死後赴く天国もない。地獄もない。つまり終末における救済などというものはない」

ここで、ちょっと言及しておきたいのは、西洋人というのは、私たち日本人が想像する以上に、非常に「目的や意味志向」であるということです。

「宇宙、世界には目的があり、意味がある筈だ、いや、あらねばならない。あらなきゃヤダ。虚しい、コワい、恐ろしい、気が狂う」

ちょっとくだけて書きましたが、まあ、そういうことです。

「神がいなかったら、世界には、宇宙には、意味がない、ということではないか。全てが「偶然」に左右されるということではないか。そんなのあり得ません、いや、あってはいけない!(泣)」

というのが、「キリスト教世界」の人々の心理なのです。これは何も西洋世界の人々のみならず、アジア人であっても日本人であっても、つまり「人類」が多かれ少なかれ抱く、存在の根源に関する思考と価値観の問題だと思います。

つまり「有神論」というのは、根拠や事実に関係のない、「願望」であるということができます。

ニーチェの「無神論」の背景には、ニーチェとほぼ同時代の人物、ダーウィンの有名な「進化論」の登場も影響したであろうことは想像に難くありません。「神による生命の創造論」に対する、ダーウィンの「進化論」。「善」や「悪」の基準に関係なく、強いものが残り、弱いものは淘汰される。弱肉強食。適者生存。「適者」とは「強いもの」。

これが本来「自然」であると。ところがキリスト教的価値観は、この本来の自然を人工的に歪め、「強者=悪」「弱者=善」の価値観を世界に広めてしまったと。隣人愛、汝の敵を愛せよ、右のほほを打たれたら左のほほを差し出せ、など。そしてそのような神(この場合イエス・キリスト)の教えを生きている間に全うすれば、死後、天国にいくと。

ニーチェは、このようなキリスト教的価値観を、「ルサンチマン」に基づく宗教だと喝破したのです。
ルサンチマンとは、恨み、妬み、嫉妬、など、「弱者が強者に対して抱く感情」のことです。これをニーチェは非難して否定したのです。

弱者の最後の拠り所である「神」を否定したわけです。苦しみ多い短い人生を全うして天国に行くつもりでいようとも、神が存在しないのだから、天国もない、と。地獄もないのだから、あなた(弱者)があって欲しいと願う、悪(強者)が受ける永遠の苦しみもない、と。

言ってみれば「身も蓋もない事実」、これが真実だと。
これを、「虚無主義(ニヒリズム)」といいます。

ニーチェの時代より科学が発達した現代においては、「進化論」そのものが再検証され、必ずしも「適者生存」「弱肉強食」だけが真実ではなく「住み分け」「共生」という現象もあることの認知や、「神は存在しない」と言われても、せいぜい「サンタクロースはいないの。あれは実はパパだったのよ」と母親に真実を明かされて戸惑う子供並みのショックなのではないでしょうか。人類の集合意識も、ニーチェの頃より進化しているからです。

いうなれば、ニーチェは鼻息が荒いんです。100年前の時代というのは、鼻息が荒い時代なんですね(笑)。現代では考えられない精力的な豪傑みたいな人物が闊歩する時代です。時代の鼻息が荒いので、時代に支配的な価値観を覆す側も、当然鼻息が荒くなければならなかったというわけです。
鼻息荒く「虚無主義」を唱えるのは、「静かにしろ!」と怒鳴るうるさい人のようで矛盾した滑稽さがありますが、ニーチェがこうなのは、実はニーチェ本人には、自身が発見?したこの身も蓋もない「事実」である「虚無主義」を超える、希望的な視点があったからなのです。

虚無主義という究極の「ネガティヴ」から目をそらさず、しっかりとそれを認識した上で、それを究極の「ポジティヴ」に変容させる「錬金術」。

それが「超人思想」なんですけど、この検証に入る前に、「では、いわば「ニーチェ後」の、現代のスピリチュアル・マスターは、ニーチェをどう捉えていたのか」が気になりましたので、調べてみると、私の敬愛するOSHOラジニーシが、全く我が意を得たりの講和を残しておりましたので、それを引用して、ひとまず終えます。

以下、oshoの講和より、引用始め

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神は死んだ――それとも行方不明なだけなのか?
 
すべての宗教が、神は世界を、そして人間をも創造したのだと信じている。だが、もしあなたが誰かによって創られたのであれば、あなたは操り人形にすぎない、あなたには独自の魂がない。そして、もしあなたが誰かによって創られたのであれば、彼はいつでもあなたを破壊することができる。彼は創造されたいのかどうかをあなたにたずねなかったし、「破壊されたいかね?」ともたずねないだろう。

 神はもっとも偉大な独裁者だ、彼は世界を、そして人間をも創造したのだというフィクションをあなたが受け容れればの話だが。もし神が実在するのであれば、そうだとしたら、人間は奴隷、操り人形だ。すべての糸は彼の手中にある、あなたの命ですら。そうだとしたら、光明を得ることなど問題外だ。そうだとしたら、ゴータマ・ブッダがいることなど問題外だ。なぜなら、自由がまったくないからだ。彼が糸を引けば、あなたは踊る。彼が糸を引けば、あなたは泣く。彼が糸を引けば、あなたは人を殺しはじめる、自殺する、戦争を始める。あなたはただの操り人形で、彼が人形遣いだ。

 そうだとしたら、罪や徳は問題にもならない、罪人や聖者は問題にもならない。悪いことは何もないし、善いことも何もない。あなたは操り人形にすぎないからだ。操り人形は自分の行ないの責任は負えない。責任は行動の自由がある者にこそふさわしい。

 存在しうるのは、神か、それとも自由か、どちらかだ。両方は共存しえない。

 それがフリードリッヒ・ニーチェの発言の基本的な含みだ――神は死んだ、だから人間は自由なのだ。

 どの神学者も、どの宗教の創始者も、このことを、つまり、もし神を創造者として受け容れたら、意識の、自由の、愛の尊厳をまるごと破壊していることを考えなかった。あなたは人間からすべての責任を取り上げている、そして、彼の自由をすべて取り上げている。全存在を、神と呼ばれる変人の、ただの気まぐれに貶めている。

 だが、ニーチェの発言は、コインの片面でしかありえない。彼は完ぺきに正しい、だが、コインの片面に関してのみだ。彼はひじょうに重要で意味のある発言をした、だが、ひとつのことを忘れていた。彼の発言は合理性、論理、そして理知に基づいているのだから、そうならざるをえなかった。 それは瞑想に基づいてはいない。

 人間は自由だ、だが、何のための自由なのか? もし神がいなくて、人間が自由であれば、それはたんに、もはや人間は善悪を問わず何でもできるということ、彼を裁く人はいない、許す人もいないということだ。この自由は勝手気ままにすぎないだろう。

 そこで、もう一方の面がくる。あなたは神を取り除いて、人間をまったく空っぽなまま放置する。もちろん、あなたは彼の自由を宣言する、だが、何の目的のために? 彼はどうやって自分の自由を創造的に、責任をもって行使するのか? 自由が放逸に陥るのを、どのように避ければいいというのか?

 フリードリッヒ・ニーチェは、どの瞑想にも気づいていなかった――それがコインのもう一方の面だ。

 人間は自由だ、だが彼の自由は、彼が瞑想に根づいて初めて、自分の喜びと祝福になりうる。

 神を取り去る――それはまったくオーケーだ、神は人間の自由にとって最大の危険でありつづけてきた――だが、人間には何らかの意味と意義も与えるがいい、何らかの創造性を、何らかの受容性を、自分の永遠の実存を見つけるための何らかの道を。

 禅は、そのコインのもう一方の面だ。禅にはどのような神もいない、それが、その美しさだ。

 だが、それには、あなたの意識を変容させるための、悪事を犯すことができないほどの気づきをもたらすための、すばらしい科学がある。それは外からの戒律ではない。それは、あなたのもっとも奥深い存在から生じる。一度あなたが自分の存在の中心を知ったら、一度あなたが自分は宇宙と一体だと知ったら――そして、宇宙はけっして創造されたことがなく、それはいつもいつもそこにありつづけてきたし、いつもいつもそこに、未来永劫にありつづけるだろう――一度あなたが光を放つ自分の存在を、自分の隠されたゴータマ・ブッダを知ったら、どのような悪もなすことができない、どのような罪も犯すことができない。

 フリードリッヒ・ニーチェは最晩年になって、ほとんど気がふれてしまった。彼は入院した、精神病院にとめ置かれた。これほど偉大な才能を持った人、いったい彼に何が起こったのだろう? 彼は結論付けていた、「神は死んだ」。だが、それはネガティブな結論だ。彼は空っぽになったが、彼の自由には意味がなかった。そこに喜びはなかった、なぜなら、それは神からの自由にすぎなかったからだ。だが、何のために? 自由にはふたつの面がある、何からの、そして、何のための。もう一方の面が欠けていたのだ。それが彼を狂気へと駆り立てた。

 虚しさはつねに、人びとを狂気に駆り立てる。あなたには地に足を付ける何かが、中心に定まる何かが、存在との何らかのつながりが必要なのだ。神が死んで、あなたと存在とのつながりはすべて断たれた。神が死んで、あなたは根のないまま独り残された。木は根がなければ生きられない、あなたもそうだ。

 神は実在しないものだった。だが、それはいい慰めだったのだ。それは嘘ではあったが、人びとの内面を満たすのに使われた。だが、嘘ですら、数千年もの間、何千、何万回と繰り返されると、ほとんど真実になる。神は人びとの怖れの中で、不安の中で、老いと死、そしてその先という自覚の中で――未知の闇の中で、大きな慰めになってきた。

 神は嘘ではあったが、途方もない慰みでありつづけてきた。

 嘘にはあなたを慰めることができる。 あなたはそれを理解しなければならない。事実、嘘は真実よりも甘い。

 ゴータマ・ブッダはこう言ったと伝えられている。「真実は、最初は苦く、最後は甘い。そして嘘は、最初は甘く、最後は苦い」――それらが明らかになったときに。そのときは、自分の両親みんなに、自分の先生たちにみんなに、自分の聖職者たち全員に、自分のいわゆる指導者たち全員に騙されてきたのだと、とても苦々しくなる。あなたは絶えず騙されてきたのだ。その失望が、あらゆる人への大きな不信を抱かせる。「誰も信頼に値しない……」。それが空白を生む。

 だからニーチェは、その人生の、この最終段階において、気がふれていたのではない。それは彼のネガティブなアプローチの避けがたい成り行きだったのだ。知識人はネガティブでしかあり得ない。議論し、批判し、あざけることはできるが、どのような滋養も与えることができない。ネガティブな立場からはどのような滋養も得られない。だから、彼は自分の神を失い、そして、自分の慰めを失った。彼は、狂う自由を得ただけだ。

 そして、それはフリードリッヒ・ニーチェだけではない。だから、それは偶然にすぎなかったとは言えない。多くの知の巨人たちが、精神病院に行き着いたり、自殺したりする。なぜなら、ネガティブな闇の中では誰も生きられないからだ。人には光と、ポジティブな、肯定的な、真理の体験が必要だ。ニーチェは光を打ち壊し、彼自身と彼に従った他の者たちの中に空白を生みだしたのだ。

 もしあなたが奥深いところに空白を、まったく意味のない完全な虚無を感じるのであれば、それはフリードリッヒ・ニーチェのせいだ。ひとつの哲学全体が西洋で育った。ニーチェが、生に対するこのひじょうにネガティブなアプローチの創始者だ。.

 セーレン・キェルケゴール、そしてジャン=ポール・サルトル、そしてマルセル、そしてヤスパース、そしてマルティン・ハイデッガー――20世紀前半の偉人たちはみな――無意味さ、苦悩、苦しみ、不安、怖れ、苦悶のことしか語っていなかった。そして、この哲学が西洋で実存主義と呼ばれてきた。それは違う。それは非実存主義にすぎない。それは、あなたを慰めてきたものをすべて破壊する。

 人間を慰めていたものは嘘にすぎなかったのだから、私は壊すことに賛成だ。神、天国、地獄――すべて、人間を慰めるために創られた虚構だった。それが壊されるのはいい、だが、あなたがたは人間を完全な真空状態に置き去りにしている。その真空状態から実存主義が生まれる。だからこそ、それは無意味さについてのみ語るのだ――「生に意味はない」と。意義のなさについて語る。「あなたは偶然の産物にすぎない。あなたがここにいようといまいと、存在にとってはまったく問題にもならない」

 そして、この人たちは自分たちの哲学を実存主義と呼ぶ。彼らはそれを偶然主義と呼ぶべきだ。

 あなたは必要とされていない。たまたま偶然に、端っこの方に、どういうわけかあなたはいきなり現われた。神はあなたを操り人形に仕立て上げ、これらニーチェからジャン=ポール・サルトルまでの哲学者たちが、あなたを偶然の産物にしている。

 そして、人間の実存には、存在とつながっていたいという途方もない要求がある。彼は存在の中に根が必要なのだ。なぜなら、根が存在の中に深く入ってこそ、彼はひとりのブッダとして花開き、何百万もの花となって咲き、彼の生は無意味ではなくなるからだ。そうなると、彼の生は意味で、意義で、至福で途方もなく満ちあふれ、彼の生はまさに祝祭になる。

 だが、いわゆる実存主義者たちの結論とは、あなたは必要ない、あなたの生に意味はない、意義はないということだ! 存在はあなたをまったく必要としていない!

 だから、私はフリードリッヒ・ニーチェの仕事を完成させたい。それは未完成なのだ。それは人類全体を狂気へと導くだろう――フリードリッヒ・ニーチェだけではなく、人類全体を。神がいなければ、確かにあなたは自由だ。だが、何のために? あなたは手ぶらのまま放っておかれる。あなたは以前も手ぶらだった。なぜなら、手にいっぱいあるように思われていたのは、嘘ばかりだったからだ。いまやあなたは、手の中は空っぽで、どこにも行き場がないことに完全に気づいている。

 私は、或るひじょうに有名な無神論者のことを聞いたことがある。彼が死ぬと、棺に入れられる前に、妻は彼の最高の服、最高の靴をもってきた――最高のタイ、できる限り高価なものを。彼女は彼に立派な別れを告げたかった、立派な葬式を出したかった。彼は生涯一度も身にまとったことがないほど着飾っていた。

 すると、友人たちが来て、近所の人たちも来た。そして、ある女性が言った、「まあ! 彼ったらすっかりおめかししているのに、どこにも行けないわね」。彼は無神論者だった、だから、神を信じてはいなかった、天国を信じてはいなかった、地獄を信じてはいなかった――行くところがないのに、すっかりめかしこんでいる! だが、これが、否定的な哲学のどれもが人類全体に残そうとしている状況なのだ。着飾って、行く用意はできている、だが、行くところがない! この状況が精神の異常を生む……。

 あなたの自由が、あなたの気づきの開花そのものになり、自由の体験があなたを永遠へと導き入れ、根へ、そして宇宙と存在へと導き入れない限り、あなた狂うことになる。あなたの生は無意味で、意義はないだろう。あなたが何をやろうと、それは関係ない。

 いわゆる実存主義者たちによると――彼らはみな創始者、フリードリッヒ・ニーチェに従っているが――存在にはまったく知性がない。彼らは神を取り去った、そこで彼らは考える――理屈に照らせば、それはどうやらほんとうのように思える――もし神がいなければ、存在もまた形骸化する、知性もなく、命もない。かつては、神は命だった、かつては、神は意識だった。かつては、神は意味そのもの、私たちの実存の塩そのものだった。もはや神がいなくなることで、この存在全体から魂がなくなる。命は物質の副産物にすぎなくなる。だから、あなたが死ぬと、あらゆるものが死ぬ、何ひとつ残らない。

 そして、善悪は問われない。存在はまったく無関心だ。あなたのことなど気にしない。かつて神はあなたのことを気づかっていた。いったん神が外されたら、あなたと存在との間に大きな違和感が生じはじめる。関わりはない、存在は気にかけない。それにはもはや意識がないのだから、気にしようがないのだ。それはもはや知性のある宇宙ではない。たんに死物だ、あなたがまさにそうであるように。そして、あなたが知っている命は、副産物にすぎない。

 副産物は、それを創っていた基本物質が離れると、すぐに消える……。

 あなたがいったん、肯定と否定との間に一定のバランスが必要なことを知ったら、そのときは、存在の中にあなたの根がある。

 神を信じるのはひとつの極端、神を信じないのはもうひとつの極端だ。そしてあなたは、そのまさに中間にいなければならない、完全にバランスを保って。無神論は関係なくなる、有神論は関係なくなる。だが、 あなたのバランスの取れた状態が、あなたに新しい光を、新しい喜びを、新しい至福を、マインドのものではない新しい知性をもたらす。マインドのものではないその知性が、全存在は途方もなく知性にあふれていることをあなたに気づかせてくれる。それは生きているだけではない、それには感受性がある、それには知性がある。

 自分の内なる実存がバランスを保ち、静かで、安らいでいるのが一度わかれば、自分の思考で閉ざされてきたいくつもの扉が突然、ただ動いて、全存在があなたに明らかになる。あなたは偶然ではない。存在はあなたを必要としている。あなたがいなければ、存在には何かが欠けていて、誰かがその代わりになることはできない。

 それが、あなたに尊厳を与える。あなたがいなければ全存在が寂しく思うのだ。星々や太陽や月、そして木々や鳥や大地――宇宙のあらゆるものが、あなた以外の誰にも埋めることのできない小さな場所が空いているのを感じるだろう。これがあなたに、自分は存在とつながっていて、存在は自分の面倒を見てくれているという、途方もない喜びを、充足感を与えてくれる。あなたがいったんきれいになり、澄みきったら、すべての次元からあなたに降り注がれる途方もない愛を見ることができる。

 あなたは存在の、知性の最高の進化なのだ。そして、それはあなた次第だ。もしあなたが無心とその知性に向かって、心とその知性より高く成長したら、存在は祝うことになる。ひとりの人間が再び究極の頂に到達したのだ。存在の一部が突然、あらゆる人に本来備わっている能力の最高の可能性にまで昇ったのだ……。

 そして、存在と自分との関係、自分との深い関係を知っている人は、存在に反する、生に反することは何ひとつ犯すことができない。それはただただ不可能なのだ。彼は、あなたが受け容れる用意があるだけの至福、それだけの祝福、それだけの恩寵を注ぐことしかできない。だが、彼の源泉は尽きることがない。あなたが自分の尽きることのない命の源泉とそのエクスタシーを見つけたときは、自分に神がいようといまいと関係ない。地獄や天国があろうと関係ない。それはまったく関係ない……。

 私はあなたに、存在と触れ合うにはどうすればいいのか、自分がどこで存在とつながり、結ばれているのかを見つけ出すにはどうすればいいのかを教えている。あなたは、その瞬間その瞬間ごとにどこから自分の命を得ているのか? あなたの知性はどこから来ているのか? もし存在に知性がなければ、どうしてあなたに知性があり得るかね? あなたはどこからそれを得るのか?

 バラが咲いているのを見て、この色のすべて、この柔らかさのすべて、この美しさのすべては種のどこかに秘められていたのだ、と考えたことがあるかね? だが、種だけでは、バラになるのに十分ではなかった。それには存在のサポート――土、水、太陽が必要だった。そして、種は土の中へと消え、バラの茂みが育ち始めた。さあ、それには空気が必要だ、水が必要だ、大地が必要だ、太陽が必要だ、月が必要だ。これらすべてがいっしょになって、死んだ石のかけら同然だった種を変容させる。突然、変容が、変態が。これらのバラ、これらの色、この美しさ、この芳香は、すでに存在にそれがない限り、それからは生じえない。それはすべて隠されていたのかもしれない、種で覆われていたのかもしれない。だが、起こることはすべて、それはすでにそこにあったということだ――おそらくは潜在力として。あなたには知性がある……。

Osho, God Is Dead, Now Zen Is the Only Living Truth, #1 より抜粋

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引用終わり



この記事へのコメント

kei
2019年08月27日 15:59
素晴らしい記事をありがとうございました。
拠り所を否定するニーチェ。
仏陀も最後に愛弟子に「自らを拠り所とせよ」と言っておられます。
そしてネガティヴから目をそらすことなく、ポジティブに変更させることが
錬金術の種明しなのですね。マリア・テレサも同じことを唱え、実践していました。

そして、インスピレーション、よくわかります。私もネットから離れていた時期、
突然単語が湧いてくる現象が何度か起こりました。
私の場合はヘーゲルという単語でした。

7年前苦しかった時ハイヤーセルフから
「貴女は錬金術を知っている。なかなかできないことだよ」と言われたことを思い出しました。

そして0010さんがブログを再開したまさにそのころ、
目の前の全ての事に、私もそれをしていました。
昔言われた、目の前の扉がどんどん開いていくということも。

地味にコツコツ楽しんでいけたらと思います。
0010
2019年08月27日 22:58
keiさん

>ネガティヴから目をそらすことなく、ポジティブに変更させることが
錬金術の種明しなのですね。

ネガティヴから目をそらさない、というのがこの場合「弓を引き絞る」
行為に該当し、それをポジティブに変容させる、というのが、弓を放して矢を放つことに該当します。
振動数が上がる、或いは覚醒するということは、「ポジティブしか知覚しなくなる」ということではなく、ネガとポジの両方向に知覚が拡がるということなのです。より高きを知るものは、より深きを知っている者です。より深い悲しみを知る者が、より高い歓喜を知る者となります。全てがコインの裏表だからです。

、、、そして実は。

覚醒するということは、
「神の存在を知る」
ということではなく、
「神は存在しない」
ということを知ることが、
覚醒の起爆剤となります。

私が「劇薬」と言ったのは、この事なんですが、その効果のほどは、私自身が体感しています。この事については、追って書いていきます。

ありがとうございます。