ニーチェの超人思想に関する考察 その3

ニーチェ哲学において有名な「末人と超人」の概念は以下です。Wikipediaから引用。



末人(まつじん)とはフリードリヒ・ニーチェによる哲学によって用いられていた概念である。ツァラトゥストラはこう語ったで述べられ、超人の対極にあり最低の軽蔑すべき者とのことである。末人というのは社会において生きる大多数の中流市民でもある。彼らは病気になることと疑うということを罪として考えて生きている。そして互いが摩擦を起こさないように、ゆっくりと歩むようになる。彼らは貧しくもなく富んでもおらず、これらはいずれも煩わしいものであるとされる。人々がこのようになれば、人々を統治しようと誰も思わなくなるし、他人に服従しようとも誰も思わなくなる。人々がこのようになれば社会には牧人はいなくなり誰もが平等であり、誰もが平等を望む社会ということでもある。末人の生き方というのは、ひたすら安楽を求めるということである。社会においての最高価値が信じられなくなりニヒリズムが広がってきたならば、人々は頑張らなくなり創造性を欠いた安楽を求める人間ばかりになるということであり、このような状態になった人間というのが末人ということである。



哲学的分野で言う超人(ちょうじん、ドイツ語:Übermensch、英語:overman, superman, super-human)とは、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが提唱した概念の一つであり、そのような新しいあり方を体現する人類の呼称である(その、漢字文化圏における表記)。
ニーチェはその著『ツァラトゥストラはかく語りき』において、人間関係の軋轢におびえ、生活の保証、平安、快適、安楽という幸福を求める現代の一般大衆を「畜群」と罵った。その上で、永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。



なるほど、よくわかりました。

約百年前に、現代の「民主主義国家」や「先進国」の国民の一般的な「存在状態」を見事に予言していたともいえます。

これはこれで、このニーチェの洞察を否定したり反論する余地は、「現代の現実」に照らしても、ない、と思われます。


ところで、ニーチェを含めた、古今東西の全ての哲人、あるいは、仏陀やキリストを含む、古今東西の全ての宗教の教祖たちというのは、自らが「絶対視」されることを、避ける筈です。その「筈」なのです。真正な哲人、聖人、マスター(「真正な」という、これは絶対条件です)であれば、必ずそうである筈なのです。何故ならば、「絶対的な答え」というものはないことを知っているのが、真のマスターであるからです。
あるいは、「答え」があるとしても、それを生のそのまま提示することは、ありません。それは、個人の成長を妨害することになるからです。
これは、バシャールやオリオンの高等評議会などの「高次元存在」も、同じです。

さておき、これは「ニーチェの超人思想に関する論考」なので、話をニーチェに戻して、搾りましょう。

ニーチェの洞察は偉大ともいえるものです。ですが、今、すくなくとも「今」の私がこれを読んで、「なるほど」とは思っても、「ワクワク」しないのは、何故なのか。現代社会の「畜群」の一人である私がこれを読んで知っても、「なるほどそういうことか」という「了解」があるだけです。ワクワクする筈がありません。これを「ニーチェ先生という偉い人」が提示したものだからとそのまま受け入れて「絶対視」し、「虚無主義」に陥ってそのまま留まることは、当のニーチェ先生も望むところではなかった筈です。面白くもなんともない。その「面白くもなんともない」ところで止まったら、それこそが「末人」「畜群」を育む温床となってしまいます。

常に「これを超える何か」の余地を残しておくものこそ、真正な(神聖な)教えであるのです。
「これを超えろ」と、「簡単には超えられそうもない」巨大な壁を築くこと。
わあ、そう考えてこそ、ワクワクするではありませんか。
チャレンジングです。

ニーチェが言っていた「超人」とは、そういうことです。「超える人」。
「ニーチェ自身の言うことを超えて」なくて、果たして「超人」とはいえますまい。

これが、私が「ニーチェの超人思想をアップデートする」と言った意味です。

次回は、そのアップデートを展開します。


この記事へのコメント

kei
2019年09月17日 10:43
いつもありがとうございます。
ニーチェが勇気をもって一般大衆の価値観の転換を進たことは、当時としたら極端でそれが自身も苦しめることになったのでしょうね。

「ツァラトストラはかく語りき」は、自分と真摯に向き合うのにとても多くの示唆を残してくれました。どうしたら真に生きることができるか。というのは今も昔も変わらず人生の課題ですね。現実に背を向けず、社会や誰かのせいにしたり何かと比べるのでなく、もしこうだったらという思いを外して、地に足を付ける。ルサンチマンは喜びを感じる力が弱くなってしまうというのもわかります。

目前の小さな事から一つ一つ肯定に持っていったり小さな幸せを集める練習は、私も日々行っていることのひとつでとても大きな実を結び糧ともなりました。日々の積み重ねが大切と言うことも実感しています。

ニーチェが真に言いたかったことも、古今東西の覚者が伝えたかった事も、核の部分は同じ様な気はします。
答えは自分の中にの意味が最近とてもよくわかる様になりました。

続きも陰謀論も楽しみにしています。


0010
2019年09月17日 22:33
keiさん

こんばんは。

>現実に背を向けず、社会や誰かのせいにしたり何かと比べるのでなく、もしこうだったらという思いを外して、地に足を付ける。

二行でまとめてしまいましたね(笑)
そう、それで終わりなんです(笑)
尚且つ、それで内面は歓喜と幸福である者。
「地に足付いたお花畑人間」に、なることなんです(笑)

ニーチェ自身がルサンチマンの人間であったことは想像に難くありません。人は自分自身のことしか語れませんので、間違いありません。身を持って症状を知らなくては、他人の症状を真に知ることはできませんから。弱者と強者のこともそうです。ニーチェ自身が弱い人間でもあり、強い人間でもあった。
つまり我々となんら変わらなかったのです。

人類を弱者と強者に二分する考えは、「幻想ゲーム」の、いわば「ルール」だったんですね。
私の考えでは、幻想ゲームを外したところでは、人間は等しく全員が強者であり、等しく全員が弱者である、と考えます。ニーチェはこの考えを否定することでしょうけれども(笑)「それこそが弱者のルサンチマンだ」と。

ですが私はニーチェの誠実性を疑っていません。だから記事に取り上げてるんですけど。
ニーチェの論法というのは、生涯子供をつくらなかったニーチェが架空の「自分そっくりの息子」に対して、「他所の出来のよい子(強者)」をわざとらしく誉めつつ、「それに比べてお前(弱者)は」と、「自分そっくりの分身」に対する愛憎の混ざった叱咤激励であるような、逆説的愛情を読むことも可能です。ですから、「ニーチェが言ったことは簡単で、要は弱者に生きる資格なし、ということなんだよ」と言う研究家もいますが、そんなことは近所のオッサンでも誰でも言うことであって、読み方が浅いと思います。ですがそういう研究家もあながち間違い、という訳ではなく、確かにニーチェは「弱者
に生きる資格なし」くらいの厳しいニュアンスで「(だから強くなれ)と「(架空の)我が子」を叱ってる」ような論法であると言うことが出来ます。

記事を楽しみにしてくださって、いつも感謝です。