ニーチェの超人思想に関する論考 その4

ニーチェは世の「道徳」というものがどういった観念に依拠して成立しているかを論考しました。


最も基本的な道徳形態は「君主道徳(貴族道徳)」と「奴隷道徳」の二種類がある。君主道徳では行為が「良」と「悪」に分けられるのに対し、「奴隷道徳」では行為が「善」と「悪」に分けられる。君主道徳の主な特徴は、自己肯定、傲慢、主動であるのに対し、奴隷道徳は自己否定、謙遜、慈悲である。ある人の道徳がどの道徳なのかは、その人の身分と地位で決まるのではなく、その人が行動する時の気持ちで決まる。したがって、ある独裁者の道徳が奴隷道徳である可能性もある。なぜなら、その独裁者は、恨みと報復によって行動しているかもしれないからである。ただし、ニーチェは、君主道徳を勧めると同時に、奴隷道徳の中の精神力を学ぶ価値もあると主張した。
 ニーチェの「道徳」は、普段われわれの言う道徳と違い、全く新しい世界観であり、独特の文化である。そして、すべての規則と慣例は、この二種類の道徳の闘争で作られたのである。



このように、ニーチェは、道徳には「君主道徳(支配者道徳、貴族道徳)」と、「奴隷道徳(被支配者道徳)」というべき二種類の「道徳」があることを洞察したのでした。

君主道徳
ニーチェは、君主道徳を意志強固な道徳と定義している。つまり、君主道徳では、良いものは有用なもの、悪いものは有害なものと捉える。このような道徳は感情である。先史時代に、”ある行動の価値があるかどうかは、その行動の結果から判断する”しかし、結局”道徳現象なんかはなく、現象の道徳解釈だけはある。”意志強固の人にとって、"良"は高潔、強い、有力、"悪"は弱い、 臆病、無自信、狭量を意味する。君主道徳の真髄は、”高潔さ”である。道徳は、意志強固の価値を守るために作られたものであり、奴隷と君主にとって、”恐怖心は道徳の生まれの母である。”君主道徳の他の性質は、無偏見、勇気、忠実、信頼、周到な自信である。”君主道徳は ’高潔な人’の中で自然に良という考えが生まれ、そして“良くない“が悪として発展される。高潔な人は”良し”自身を決まった価値として経験する。証明する必要がなく、’自分に有害なもの自身は有害である’と判断する。また、君主道徳は他のものに名誉を授けることができるとわかっている。君主道徳は’価値創造的’である。この意味では、君主道徳はすべてのものの物差しである。意志強固の人は自分に有用なものは、自分の中で価値あるかを判断する。そして、意志強固の人はこういうものを’良’と判断する。 君主は、道徳の創造者である。一方、奴隷は、奴隷道徳を用いて君主道徳に反応する。



奴隷道徳
 君主道徳の感情的と違って、奴隷道徳は非感情 (反感、ルサンチマン)である――君主道徳が評価したものを再評価する。ある行動の結果からその行動の価値を判断するのからはぐれて、ある行動の”意図”からその行動の価値を判断する。君主道徳は強さから生まれたのに対し、奴隷道徳は弱さから生まれる。奴隷道徳は圧制への反抗なので、圧制者が悪党だと考える。奴隷道徳は君主道徳と正反対である。厭世主義と懐疑論という性質がある。奴隷道徳は君主道徳の’良’と判断するのに反対して作られる。奴隷道徳は力で人の意志を増強するのを目的とせず、細心の転覆を目的とする。奴隷道徳は君主を超える道を探るのではなく、君主も奴隷する道を探る。奴隷道徳の真髄は”実用”である。:良いものは大衆に有用なものであり、強いものではない。ニーチェはこの点を自己矛盾と見ていた。”’普通の良’はどうやって存在できるか!この表現は自己矛盾である:普通とはかつて存在してよほど価値のないものだ。”最後にはいつものようにこうならないといけない:偉大に偉大なもの、複雑に計りきれないもの、 上品に繊細、まとめると、稀には稀なもの。”強力なものは数多い弱いものに比べて数少ないから、奴隷制度を起こすのは(すなわち、will to power) ”悪”だということを強いものに信じさせることにより、弱いものは権力を獲得する。弱いものは弱さで自分の性質を選べないのである。 奴隷道徳は卑下が自発的だと主張することにより、自分の卑下が君主に圧制された時に生まれたと認めるのを避ける。聖書の侮辱を甘んじて受ける、謙遜、慈善、憐れみという理論は奴隷の苦境をすべての人類に広げる結果である。だから、君主をも奴隷にする。” ”民主的”運動はキリスト教から生まれた。”―自由と平等を取り入れた奴隷道徳の政治表明。



なるほど、これはどうやら、実社会における「階級」に自然付随する特質をいった「階級差別」的な発言でなく、その人の社会的階級がどうあれ、個人の持つ「精神」に言及したものであるとみることができます。ですから、これを「君主精神」「奴隷精神」といった方が、「階級」というものが少なくても表面上は曖昧になった現代社会の先進国ではわかりやすいのではないかと思います。

物凄く簡単に言うと、「君主精神」とは、能動的、価値創造的、いわば「それ自体」的であると。
一方、「奴隷精神」は、受動的、反応的、つまり「それ自体」はなく、常に外部の「それ自体」に「反応」する(多くの場合、否定的に)だけの、いわば「非生産的な」精神のこと。

これは、私たち「スピリチュアル」に馴染んだ人間には、物凄く定義しやすい。
つまり超簡単にいって、

「君主精神」=ポジティブ
「奴隷精神」=ネガティブ

ということですね。

そして、簡単です。

「君主精神(支配者精神)」とは、「自分軸」のこと。
「奴隷精神 (被支配者精神)」とは、「他人軸」のこと。

これで、ニーチェは実社会における社会的な「階級」の精神の格差をいったのではなく、「個人」の精神の在り方の格差をいったのだと言うことができます。ニーチェの時代やそれ以前の「貴族」の精神を手放しで称賛し、「平民」の精神を非難したなどという短絡的な解釈では、誤って解釈してしまうことになるでしょう。

ニーチェは「奴隷道徳(弱者道徳)」の擁護者として「キリスト教」をやり玉に挙げて非難したわけですけど、その中の「忍従」や「刻苦」のような精神までを一概に否定したわけではなく、そのような「美徳」的資質はそれなりに評価していたようです。ニーチェは元々謹厳なキリスト教の家庭に生まれています。彼が非難したのは、キリスト教の「あの世」思想、「弱者が善で強者は悪」思想、「終末における救済」思想などの、「ルサンチマン」を基にする「奴隷精神」だったのです。

面白いことに、ニーチェが洞察するまでもなく、キリスト教の「大ボス」であるイエスは、「君主精神」の体現者であったということができます。一方、(特に近代、現代の)「キリスト教徒」は、「奴隷精神」の体現者そのものであるということができます。

キリスト教徒の「奴隷精神」に対する「反動」で「悪魔主義」というのがありますが、いくら粋がっても、これも「主人」を「神(ないしイエス)」から「悪魔(サタン、ルシファー)」に変えただけの「奴隷精神」であることに変わりありません。ちょっと洞察すれば、「神」という「幻想」には必然的にそれに対する「悪魔」という「幻想」がセットになるわけで、どちらも「幻想」であることは論を待ちません。
「神」は存在しないのだから、「悪魔」も存在しないのです。
ところで私はといえば、かつては「有神論者」であり現在は「無神論者」となった者ですが、他人が「神」を崇拝するにせよ「悪魔」を崇拝するにせよ、「信教の自由」というものに関しては否定するものではなく、むしろ養護すべきであると考えます。神や悪魔や天国や地獄という概念は、ある惑星に居住する住民が「無明」である原始時代ないしは「幼年期」には、むしろ秩序、安全、発育に必要な「セーフティーネット」として機能するからです。「へその緒」のようなものだと考えればわかりやすいでしょう。私が以前のブログで翻訳していた「サウル」のメッセージでも、「地球人は「地獄」などの幻想を創造するのに長けており、そうした幻想を今あなた方から取り上げることは、幼い子供からお気に入りの玩具やキャンディーをお取り上げすることと同じ」といっています。

「自由な大人」に成人した者だけが、過去の「幼年期」の玩具(神、悪魔、天国、地獄、などの概念=宗教)に「感謝」しつつ、「さよなら」して手放すことができる、ということです。

そうすると、ニーチェは、まだ世界が「幼年期」バリバリの百年前に、来るべき「新しいパラダイム」の時代が間近であることを予見し、「神は死んだ=宗教を卒業せよ」といったのだということができます。

さて、やや話は逸れましたが、今回は「君主道徳」と「奴隷道徳」についてでした。
そして私は現代の「スピリチュアル」の立場から、これを「自分軸」と「他人軸」に言い換えることができることを「発見」しました。

それは「社会的階級、地位」に依拠する精神のことではなく、どんな地位や立場であっても関係なく「個人」の精神の在り方をいったものであると。「支配者」あるいはいわゆる「勝ち組」といわれる人間の中にも「奴隷精神」の者はいるし、「君主精神」の者もいることでしょう。
「被支配者」あるいはいわゆる「負け組」といわれる人間の中にも、文字通り「奴隷精神」の者がいるし、「君主精神」の者もいる、ということです。

これをまた、ニーチェは「弱者(奴隷)のルサンチマンによる詭弁だ」などと否定するでしょうか?(笑)
私は、ニーチェはそうは言わないと確信します。むしろ、そのことをニーチェは「超人思想」で言っていたのだと断言できますし、私自身もこの自分の洞察が「弱者のルサンチマン」からくるものではないことを、読者の皆さんに責任を持って誓うことができます。

さて、ニーチェは「君主道徳」と「奴隷道徳」という具合に「道徳」を二分し、同じく、来るべき時代(神なき時代)に人類が「末人」と「超人」に二分されることを予見しました。

これを次回は踏み込んでみたいと思います。

この記事へのコメント

ミモザ
2019年10月01日 11:24
こんにちは、
記事を シェアさせてもらいました。

0010さん
無神論者になったのですね…
0010
2019年10月01日 19:32
ミモザさん

記事をシェアしてくださって、ありがとうございます。

はい、私は今ではハッキリと無神論者になりました(^_^)
いずれこの事も記事で書書かなくてはなりませんね。

決して「虚無主義」を伴う無神論ではないことを、取り敢えずこの場でお伝えしておきたいです!
晴明で、理性的な、ポジティブな無神論です。
神は存在しない、という事実はある種の人には先ずは衝撃的な「悲報」となることがあり得ますが、それを越えて、真に「変容」「覚醒」することを望む人にとっては、無神論を「知識」や「一つの選択肢」ではなく、真に「理解」「実感」してモノにすれば、これ以上ない「覚醒」の起爆剤となり得ます。

ありがとうございます。
0010
2019年10月01日 19:46
コメント追記です!

先程のコメントをアップした直後、何者かの(笑)「こう説明してください」のインスピレーションが降りました(笑)

「真に無神論を体得することとは、今まであなたが「神」と「自分」に分けていた二つの存在を「一つに」収束することです。それは、二重にぼやけたピントの甘い写真が、くっきりとジャストにフォーカスが決まった写真になるイメージです」

😉