フラットアース(地球平面)説についての0010の考察

コメント欄でミモザさんから「地球平面説」についての意見を伺われましたので、0010なりの考察の記事です。

最初にお断りしておくと、私自身は「地球球体説」の方を採択するものです。「それが常識だから」ではなく、私が採択する「宇宙は(有限ではなく)無限である」論と整合性がとれるというのが理由です。

ですが、現代の科学から言っても非常識なある種「トンデモ」な理論である「地球平面説」を、「トンデモ」だからといって無下に否定するのではなく(かつては「地球球体説」がトンデモだった時代もあるのです)、私なりに「地球平面説」を「真面目に」考察してみたのです。
いわば「思考実験」ですが、この思考実験のキーは以下です。

1.「なにごとも見た通りではない」という、真実探求の際の訓示に敬意を払って

1.「AかBか」ではなく、「AもBも」という、バシャールの言葉に則って

1.「常識を疑え」(これは私も実は嫌いな言葉ではなく、真実探求においては必要とされる態度です)


では、いきましょう。
先ず、0010の持論から先に言いますと、

「宇宙に平面(直線)は存在しない」というものです。

ところが、同時に「平面は存在する」のです。どこに?
「人間の体感に」です。
これは誰も異論はないと思われますが、もしかしたら「地球が球体であることを体感して生きている」希な人もいないとも限らないので、断言は憚れますが、一般論としては、「人間はだれしも地球を平面に体感して暮らしている」のではないでしょうか。
現にフラットアーサー(地球平面論者)たちは、このことを「地球が平面である証拠の一つ」とするようです。

ここで、ちょっと「次元」に関する考察をしてみましょう。

0次元は、「点」
1次元は、「点」が横に移動(という運動)によって生じる「線」
2次元は、「線」が横に移動(という運動)によって生じる「面」
3次元は、「面」が縦に移動(という運動)によって生じる「立体」

4次元についてはこの場合割愛させていただきますが(頭が痛くなるのでw)、「諸動物は、世界をどう体感しているか」を思考実験した人がいます。ウスペンスキーという人ですが、彼の思考実験によりますと、

カタツムリは、世界を「点」として体感している。カタツムリの動き(軌跡)は「線」ですが、彼(カタツムリ)自身は、自分が移動する運動を「線上を移動している」とは体感せず、「点が次々と自分の行く手に現れる」ように体感している。

犬は、カタツムリよりは「次元上昇」した体感で世界を捉えている。これが「線」だったか「面」だったかは失念しました。資料の本が押し入れの奥なので申し訳ありませんが今は確認を断念させていただきますが、犬の体感する世界は、以下のような世界になります。

例えば、私が愛犬のラッキー(2014年に他界)を連れて散歩しています。
路地の曲がり角に、一軒の家があります。私とラッキーの散歩の軌跡は、先ずその家の一面の前を通過してから、角を曲がって、その家のもう一つの一面の前を通過します。私(人間)は、角を曲がる前の一面と角を曲がった後の一面を「同じ一軒の家を構成する壁面」であることを知っているので、角を曲がる前でも「角を曲がった後の一面」が存在していること、そして角を曲がって見えなくなった「角を曲がる前の一面」も「まだ存在している」ことを「自明の理」として把握しています。ところが、ラッキー(犬)は、そのようには把握(体感)しません。
彼(ラッキー)は、角を曲がる前の一面(壁面)は角を曲がると消えて(存在しなくなって)、角を曲がると新しい一面が「現れる」ように体感するのです。つまり、ラッキー(犬)は、常に「世界がその都度目の前に出現する」ように体感しているのです。一方私(人間)は、世界が出現するのではなく、自分の方が「既にある世界を移動している」と体感しているというわけです。

この、ラッキー(犬)と私(人間)の「世界を捉える際の体感の差」は、私の方がラッキーよりも「一つ次元が上」の視点で世界を捉えているからなのですが、では人間が「次元上昇」したらどのように視点(体感)が変化するのか、の一つの参考になるでしょう。
例えば、ラッキーにとっては、角を曲がる前に見た家の一面は消えて存在しなくなって、角を曲がった後の一面を「新たにその時に出現」するように捉えます。この「家」を、「時間」に置き換えてみましょう。

(ラッキー(犬)は、通り過ぎた「風景の一面」はその都度消えて、「新しい一面」がその都度出現するように捉えている)
私(人間)は、通り過ぎた「過去」はその都度消えて、「未来」がその都度出現するように捉えている。

人間にとっては、路地の角にある家の角を曲がって、角を曲がる前に見たその家の壁面が見えなくなっても、依然その壁面は「存在している」ことを知っています。同時に、角を曲がった後に見えるその家のもう一つの壁面も、自分が角を曲がらなくても「そこに存在している」ことを知っています。つまり、その別々の壁面は同じ一軒の家を構成している壁面であるので「同時に存在している」ことを知っているからです。

現在の人間より「一つ(あるいは二つでも三つでも)上の次元の存在」は、「(人間が体感している直線上の)時間」の「過去」と「現在」と「未来」が「同時に存在している」ことが「見える」、というわけです。

これが、「予言」のメカニズムと関係していることでしょう。
バシャールやオリオンの高等評議会などの「高次元」の存在が、人間に適切なアドヴァイスをもたらすことができるのは、そのためなのです。

もう一度ラッキーと私が散歩しているシチュエーションに戻りましょう。

先ほどの路地の角の家を曲がって、そのまま50メートルほど歩くと次に曲がるつもりの角があります。
その角を曲がってすぐに、凶暴な野良犬がいます。
現時点では、ラッキーも私も、その角を曲がってすぐに狂犬がいることを知りませんので、そのままその角を曲がるつもりで歩き続けています。「(文字通り)上からの視点」では、空撮のように街の全景が見えているので、「このまま行ったらあの一人と一匹は狂犬に遭遇してえらい目に合う」ことを察知します。そこで、私を見ているある高次元の存在(ハイアーセルフでも良いですし、霊を信じる人なら守護霊、スピの人なら守護天使でもなんでも良いです)が、「そのまま言ったら危ないよ」と私に忠告します。これを私(あるいはラッキー)は「直感」として捉えるか、もしくはなにも考えずともひとりでに、という形で、もう一つ手前の角を曲がります。
狂犬と遭遇してえらい目に合う危険が、回避されました。

これは「パラレルワールド」を移動した、ということなのです。
パラレルワールドは「あらゆる可能性の世界が同時に存在している」ことなので、この場合、高次元存在からの忠告(直感)を無視してそのまま「狂犬が潜む角に向かって歩き続けた私とラッキーがえらい目に会っている世界」が、「手前の角を曲がって楽しく散歩を続けている世界」と、「同時に」存在しているのです。

毎度のことですが、話が大きく脱線しました。

「フラットアース」の考証を説明する必要性から「次元」の話になり、「予言・予知」の話になって、パラレルワールドの話にまで脱線してしまいました。

だからといって、「宇宙はなんでもありで各個人の現実はそれが当人の現実なのだからフラットアースだって三角の地球だって四角の地球だってパラレルワールドに存在する」などと、いかにも浅薄なエセ・スピリチュアルな言辞をもって「フラットアース」を肯定する趣旨ではありません。繰り返しますが私は、「地球球体説」を採択するものです。どのパラレルワールドにおいても、地球は球体であると。

ただ、「フラットアース説」は「人間の体感としてはそうである」世界を理論化した説として、フラットアーサーにも三分の理、という「お情け」をかけてあげたくはあるのです。

「宇宙に平面は存在しない」というのが私の持論ですが、では何故存在しない「平面」という概念があるのか。

もうお分かりかと思いますが、それは「次元」の違い、視点の違いなんです。

これを、超乱暴に言ってしまいましょう。

地球は、地上に存在する極小の存在(人間、及びその下位の存在)にとっては、「平面」。
現在の人間より(次元が)上位の存在には、地球は「球体」。

人類は、「体感上」感じる世界観から推して構築した「フラットアース」という古代からの「迷信」から、科学の発達により脱却し、「人類より上位の存在」は知っていた「地球は球体である」という「事実」を、知った、ということです。「知る」ことと「体感」することの現時点でのギャップが、今なお「フラットアース」説が浮上してしまう余地となっているのでしょう。

ラッキーにとっては、路地の角の家の一面(フラット)は、角を曲がって「出現する」もう一つの一面と「同時に存在している」、一軒の家(立方体)の別の側面であることを理解しません。それが彼の「体感」なのです。一方私は、その二つの面が「一軒の家」という「立方体」の側面であることを理解しています。

フラットアーサーは地球が球体であることを示す衛星写真をNASAの捏造だと喝破するのですが、私は彼らに、優しくこう言ってあげるでしょう。

「実際に他に捏造を行っている悪名高いNASAだけど、私はNASAの地球の衛星写真は捏造じゃないと思うんだ。実際にその地点から地球を眺めたら、私の目にも地球は球体に見えると思う。ああ、あなたが今言いたいことはわかる。赤という色は実際に存在してるわけじゃなくて、ある波長の光線が「人間の目には赤く見える」のと同じで、地球が球体に見えるからといって、実際に地球が丸いわけではない。とこうおっしゃりたいのでしょう。あなたのその言い分はごもっともです。そして私の言い分を言わせてもらうと、「地球に暮らしていて平面に体感するからといって、地球が平面であるわけではない」。こう考えるのはどうかな。地球は、地上においては平面、上空からは球体。どちらも錯覚で、どちらも幻想。そう、「全て」が幻想なんです。観測者の位置、次元の違いが「異なった幻想」を生じるのです。ただ、平面よりは立方体の方が次元のクラスが上位なのと同じく、地球は球体であるという「幻想」の方が上位の幻想だと私は思うよ。何事も固定された「事実」というものはなく、全ては観測者の主体による幻想なんです。しかし観測者にとっては、それが現実。このパラドックスが分かるかな。現実と書いてげんそう、幻想と書いてげんじつと読む、なんていったら、ニュアンスが少しわかってもらえるかもしれませんね。宇宙人の視点から見れば、地球は球体。地球に降り立てば、これは地上の人間の視点でもあるけど、そこは平面。「地球自身」は、自分を球体ですらなく、螺旋状の細長い体に認識してると思うよ。地球という球体の運動の軌跡の全体が「同時に存在している」ように地球自身は「体感」しているというわけです。都会の夜景の上空写真の、高速道路を走る車のテールランプ(点)が、長い「線」に写っているのと同じ理屈です」

OH!

マイ

ガッ。

訳の分からない?長文、最後まで読ませてしまったことを心よりお詫びし、最後までお読みくださったことを、心より感謝いたします☆

この記事へのコメント

ミモザ
2020年02月11日 13:49
記事のアップありがとうございます
改めてコメントさせてもらいます

本日は、建国記念日ですね。
(旧暦 1.18)
0010
2020年02月11日 17:06
ミモザさん

あ、建国記念日ですね(笑)
そのタイミングで久しぶりに記事を更新できたのは奇遇です。
きっかけはミモザさんなので感謝します。

ありがとうございます。